辻堂生まれの神奈川県議会議員脇れい子。
当事者の視点を第一に、県政に取り組みます。

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各派交渉会が終わり、所属する委員会が決まりました。

常任委員会、特別委員会のメンバーと、委員長、副委員長を決めるための交渉会が514日から16日まで3日間の日程で行われました。
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日目の昨日、夕方、ようやく調整がつき常任委員会、特別委員会のメンバーと委員長、副委員長が決まりました。
昨年は議長、副議長の選出もあり、交渉会は3日間は必要だと感じましたが、今年の各派交渉会は先ほど書いた通り、議員が所属する各委員会を決めることと、それぞれの委員会の長と副を決めるだけでしたので、3日間は必要ないと感じました。交渉会を開くことも税金で行うのであり、交渉会の日程を2日間として、効率よく行うことも大事ではないでしょうか。

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日の臨時会で正式に決定しますが、私の所属は
 常任委員会は こども文教常任委員会
 特別委員会は 災害対策等特別委員会 の予定です。
私自身、希望する委員会に所属することが出来ました。

 

市政報告会を開催します

5月27日(日)14時30分より高橋八一さんと一緒に市政報告会を開催します。
会場は、藤沢市労働会館、第4会議室です。
藤沢駅北口より徒歩15分、少し歩きますが、ぜひいらしてください。

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農場幼稚園

視察3日目。100年前の農家、敷地を使った幼稚園を視察しました。カリキュラムはなく、子どもたちは自由に過ごしています。園内にはたくさんの家畜を飼っています。休日には親も餌をあげに来たりして、一緒に育てています。そして園の給食で、育てた家畜をみなで美味しくいただくそうです。調理も子どもたちがお手伝いします。こどもに喜びを与えられるように、一人ひとりに合わせたサポートを行っています。幼稚園の理念などはまた、帰ってから報告します。、ebfbb792.jpgfc10abeb.jpgf76be402.jpgcfc6833f.jpg
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デンマーク視察2日目

15日11時40分に成田空港を出発し、11時間。コペンハーゲンに到着し、その後専用車で研修都市ボーゲンセに夜8時過ぎに無事到着しました。こちらと日本の時差はマイナス7時間。デンマークは今サマータイム。
2日目は、3ヶ所の訪問、交流をしました。詳細は帰国後に報告しますが、オーデンセの市議、チーナ・ブーさんとの交流について、簡単に書きます。デンマークの市議は市長、副市長だけがフルタイムの給料を貰える。市長は議員の中から選ばれ、議会では議長となる。副市長は、議会の下にある委員会の長がなる。他の議員は正規給料はなしで、賞与に値するものが、オーデンセでは年に119,000デンマーククローネ(日本円で20万円くらいか)支給される。(金額は市によって違う)基本的に議員は仕事を持っていて、議員としての仕事は副職。ちなみにオーデンセは人口19万人。市議は29人で、女性は5人。議会は2週間に1回、夜開かれる。チーナさん曰く、議会は余暇活動。賞与の額が少ないと思ったことはない、との事でした。市議選挙には29人の定数で250人くらい立候補するそうで、街頭演説はないそうです。

「コペンハーゲンへ視察」少子化・福祉問題研修

今日から20日まで、コペンハーゲンへ視察に行ってきます。高齢者センター、児童施設、国民学校など訪問します。向こうの議員との交流や、自治体関係部署でヒヤリングを行ってきます。
海外には不慣れですが、しっかりと学んできたいと思います。8ae88fea.jpg

国立ハンセン病資料館見学

議員の仲間6人で、公益財団法人人権教育啓発推進センター主催の「芝大門人権講座」春の特別企画「国立ハンセン病資料館見学と『語り部』のお話」に参加してきました。国立ハンセン病資料館は、東村山市にある多摩全生園の敷地内にあります。全生園の敷地は桜が8分咲き、観桜会が開かれていました。
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資料館では、「柊の向こう側」というタイトルのビデオを視聴しました。このビデオは、ハンセン病患者の隔離の実態、偏見・差別の事実などを伝えるドキュメントでした。
元ハンセン病患者という立場の語り部、佐川修さんのお話は、ハンセン病についてや療養所での生活、いろいろな患者さんのエピソード、らい予防法に対する運動などで、とても流暢な語りでした。

国の間違った隔離政策によって、人間として生きる権利、自由を奪われていった人たち・・・。
1996年に「らい予防法」が廃止されても、未だにとりもどせないもの、「家族との絆」「社会との共生」「入所前の生活」「人生の選択肢」という言葉が資料館の展示に書かれていました。

全国に今、国立13か所、私立2か所のハンセン病療養所があります。現在は、ハンセン病は治癒している人たちばかりですが、障がいが残っていて、老人性疾患や機能回復のための療養所になっていて、今も全国で2200人を超える人たちが暮らし、平均年齢は82歳となっているそうです。
私は、かつて、熊本県にある「菊池恵楓園」に伺い、入所者の方からお話を伺ったこともあります。

人が人を差別する。その中には、無知による差別、偏見がまだまだたくさんあります。そのような観点からも、人権教育・人権啓発はとても重要です。

敷地内に東村山市の「いのちとこころの人権の森宣言」の碑がありました。
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「いのちとこころの人権の森宣言」
かつてハンセン病は、不治の伝染病とされ、患者は国の強制隔離政策と人々の偏見や差別の中で、長く苦しい歴史を歩んできた。
ここ多磨全生園には、故郷を捨てさせられた人々が眠る納骨堂、終生隔離のなかで故郷を偲んだ望郷の丘、苦難の歴史を語り継ぐハンセン病資料館、これらとともに多くの想いがある。
この地を第二の故郷とした人々は、萎えた手足に力を込め、病をおして拓いた土地に、一人一人が想いを込め、一本一本植樹し緑を育てた。
いま、その緑の地は、そこに暮らす人々と東村山市民との百年の交流をとおし、いのちとこころの人権の学びの場となった。
私たち東村山市民は、こころをひとつにし、ここに眠る人々を鎮魂し、この土地と緑と歴史のすべてを『人権の森』として守り、国民共有の財産として未来に受け継ぐことを宣言する。

平成21年9月28日
東京都 東村山市


被災地のがれき受入れについて 藤沢市の考え方

代表質問、予算等特別委員会での質疑で藤沢市の被災地のがれきの受け入れについての考え方が出されました。

被災地の支援並びに被災地における生活の早急な回復を図るためにもがれき処理への協力は必要なこととしています。
藤沢市の災害廃棄物の処理可能量は年間2,840トン、放射性物質を含むと想定されるがれきの処理に関しては以下の
7つの課題があるとしています。


1.災害廃棄物の処理に際しては、各市単独で対応するのではなく、県が中心となり県下自治体による広域的相互協力体制で臨む必要があること。


2.災害廃棄物の受け入れに際しては、放射性物質濃度が正確かつ確実に測定できる体制の整備が必要であること。


3.本市における災害廃棄物の処理にあたっては、処理施設における排気ガス等の放射性物質濃度が正確かつ確実に測定できる体制の整備は必要であること。


4.国は放射性物質として取り扱う必要のないものとして、クリアランスレベルを1キログラムあたり100ベクレル以下としておりますが、焼却灰については1キログラムあたり8,000ベクレル以下であれば埋立処分できるとし、また一方では、処理施設で発生する排気ガス等についてはクリアランスレベルが設定されていないなど、放射性物質を含む恐れのある災害廃棄物の処理に関する安全基準が明確でないこと。


5.神奈川県は災害廃棄物処理で発生した焼却灰等について、県芦名最終処分場での処分を協議しておりますが、現状、受け入れができる目処が立っていないこと。


6.受け入れた災害対策廃棄物の処理等にかかる経費負担について明確になっていないこと。


7.焼却炉に悪影響を及ぼす塩分除去方法や廃棄物の分別方法、施設に損害が発生した場合など、具体的な対応方法が不透明であること。

藤沢市としては、これら課題が解消される見通しが立った段階で、市民の皆様の意見を伺いながら検討していくとの答弁がありました。




3月27日 予算等特別委員会終了

3月19日から始まった予算等特別委員会が今日ですべて終了しました。この委員会での審議は、2012年度予算の骨格予算であり、鈴木新市長のもとで行われる事業などは6月・9月の補正予算で審議となります。
それでも連日、細部までの質問もあり、審議に時間がかかり、夜遅くになった日もありました。ただ予算審議というより、決算審議のような質問もあり、私自身初めての経験でしたが、反省すべき点もありました。
民主・社民は予算特別委員会に付託されたすべての議題に賛成をしました。共産党はすべての議題に反対。他の予算委員をだしているすべての会派はみな賛成をしました。
予算委員になるとさまざまな事業について、勉強になり、また一般質問で追及をしていく課題もいくつかみつかりました。明日の本会議で2月定例会が終わります。

卒業を一緒にお祝いして

3月15日は白浜養護学校、小・中学部の卒業式、16日は高砂小学校の卒業式に参加させていただき、一緒に卒業をお祝いしました。

どの卒業式も感動的でした。私自身の子お育て中はかなり過酷な状況もあり、卒業式で感動の涙を流す余裕もなかったのかもしれません。

高砂小学校は、私の母校であり、二人の子どもの母校でもあります。
私は1年生の時に高砂小学校ができ、9月に辻堂小学校からみなで歩いて(行進をして)、新しい高砂小学校の門をくぐりました。
また上の子どもが5年生、下の子どもが2年生の時、現在の高砂小学校の校舎になりました。

校舎改築のとき(1995年)、旧校舎の思い出写真集の編集委員になり、先生や高砂の卒業生でもある保護者と一緒に「海とみどりと太陽と」を作りました。

久しぶりの校舎、オープンスペースが健在でした。

19日から27日まで予算特別委員会が開かれます。予算委員になりましたので、しっかり勉強し、いろいろと質問をしたいと思います。
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